書きとめ
Aと、普段からニュースをシェアしたり考えを交換したりする。ついこのあいだまでは散歩中にも選挙カーをよく見かけて、わたしたちの前をいろいろな党の選挙カーが通り過ぎるたびにそれらの党に関する話をした。わたしたちの夜ご飯のメニューや明日の予定の話をするくらい身近だったから。
ある日、駅前で偶然演説の場面に出くわして、なんとなく聞いていたら、あとで演説をしていた候補者から声をかけられた。その候補者はわたしたちにチラシを「よかったら」と差し出してきた。わたしは受け取った。「投票、行くの」と聞かれて「はい、私は期日前のつもりで」と答える。次に演説者がAを見て、チラシを渡そうとしたとき、わたしは内心緊張していた。Aはここで毎日を生きているけど、有権者ではなかったから。わたしたちが、投票いけないんですよ、と歯切れ悪く言ったとき、一字一句明瞭に覚えていないけど、それでもいいから、もしよかったら読んでみてとその人はわたしたちにチラシを持たせた。その人はどう考えていたのかわからないけど、その言葉と行動はたしかにわたしの心を安心させた。さっきまで、なんとなく聞いていた目標の政策やチラシに並んだ言葉や思いは、有権者だけでなく、ここで一緒に生きているひとたち皆に開かれているのだと、思わせたからだった。
もちろん、今の参政権に満足はもちろんしていない。国会に立つ人たちはしばしば代弁者や代表者なんて言葉で表されるけど、これだけ、日々生活や未来や平和を一緒に考えて生きているAの声は、そこには確実に含まれていない。参政権があってもそれぞれの事情で投票が困難な人たちの声は含まれていない。私は投票するとき、一票の重みを意識しているけど、でも誰かのぶんも背負って投票しているという気持ちは持てない。むしろ、票を入れた瞬間、Aや自分のほかの知り合いや、まだ顔の知らない人たちと、わたしのあいだに罅入る分断(こう表現するのがぴったりとは思わないけど、でも限りなくこれに近い)が、わたしの意識に重たくのしかかってくる。
選挙の結果が開示された。わたしとAにチラシを渡したあの候補者は落選だった。絶望しちゃいけないと思っても、ショックは拭いきれなかった。選挙速報を流すテレビの液晶にうつされるバラに、この国の初の女性首相の笑顔に、怒りまで込み上げた。どうにでもなればいいと、深い深い地下へ続く穴に入って、マンホール蓋をとじたい気分になった。Aはわたしの怒りを、わかる、と受け止めたうえで、絶望の穴へ続く梯子を降りてこようとはしなかった。別の場所で、別の時期に、底なしの落ち込みを経験していたAは、わたしに言葉をくれた。理想を抱く人のうち、その理想が叶った世界をその目で見ることが叶った人の数は少ないだろう。理想の一歩のために十数年、数十年ぶん世の中が後退する可能性だってある。それでも、自分の心の善を裏切らない限り、長い目で見れば善は社会をよりよい方へ押し出すはずだと。
今回の選挙に大きな絶望感をわたしが感じるのはたしかだ。どんな慰めも冷静な言葉も、無力感とともに空いた穴を隠すことはできない。でも絶望がわたしの思考を、意思を、染めきってしまわないように、わたしは降りかけていた梯子をふたたび上へとのぼることにした。求めている光を見られることが確約されてるからわたしは抵抗している、のではない。ぼやけていても、曖昧でも、理想の種がすでにわたしの心のなか、Aの心のなかで燃えているのであれば、この両目で、肉眼で今それを見ることができなくても、歩みを止めずにいられる。外界の光は水をかけたり、電源を抜けばたやすく消えてしまうが、内界は何物も何者も触れることのできない空間で、そこにある光はわたしの存在が消えない限り永遠だ。見える、触れられる光がなくても進むことが、抵抗であり、生きることだ。嫌な世の中で今日を明日を生き延びることは、現実に折れて迎合したことを意味しない。議会の多数はわたしの精神の自由を制限しない。多数だろうと、人権や平和を無視した決定がすべてのひとの在り方を、生き方を決めてはならない。
どれだけ楽観的で、非現実主義だと言われても、わたしは以前も以降も、ひとつ、政治に願うことがある。太陽が地球のひとびとを、どこにいようと照らすように、この国の政治もまた、ひとびとがどんな暮らしをしていようと、どこにいようと、照らしてくれるようにと。政治は自然ではなく人為的だが、その人為的な光は、ひとびとを光と陰に分断するために使われるべきではない。